40代で初めてのキャンプ。
そんな予定がカレンダーに入っていても、直前まではあまり現実味がなかった。
旅行でもイベントでもそうだけど、普段やらないことほど「本当に行くのか?」という感覚になる。今回も、まさにそれだった。
しかも僕は、昔から病弱インドア育ち。子どもの頃から家の中で遊ぶのが普通で、キャンプなんてYouTubeや映画の中の話。自分がテントを張って、外で肉を焼いて、焚き火を見ながら夜を過ごすなんて、正直ほとんど想像していなかった。
でも、友達に誘われた。しかも場所は、南砺市の閑乗寺高原 第2キャンプ場。一番景色がいいところを予約してくれていたらしい。
その時点で、もう自分ひとりでは辿り着けない体験だったと思う。
この記事は、そんなテントも張れない40代が、初めてのキャンプで子どもみたいにはしゃいだ話。
そしてもうひとつ。自然の中に身を置くと、どうして悩みが少し小さく見えるのか。その感覚も、ばからシリーズらしく拾ってみたい。
本当に行くのか? テントも張れない40代、キャンプ場に立つ
キャンプ場に着いて、まず思った。
「え、マジでここでやるの?」


目の前には、開けた景色。高原の空気。遠くまで見える眺め。そして影一つない泊まる場所。

あまりにも普段の自分の生活と接点がなさすぎて、少し笑ってしまった。自分だけ、別作品に迷い込んだモブみたいだった。

当然ながら、テントを立てるのも初めて。
もちろん時間はかかるし、日陰はないし、暑いし、説明を見てもすぐには分からない。のっけから順調とは言いがたい。でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、そういう不器用さ込みで「いま、ちゃんと初めてのことをやっている」という感覚があった。
病弱インドアな僕にとって、キャンプはずっと外の世界の遊びだった。
でもその日だけは、コントローラーを手放してもいいルールで遊ぶ日。現実なのに、どこか映画みたいな始まりだった。
ちなみに初めてテントは2時間かかった。テントを設営するだけで映画一本分。…やばくね?
夕陽とBBQと、心の中の小学生
一番「子どもみたいにはしゃいだ」と思う場面は、たぶんBBQだった。

肉を焼く。酒を飲む。どうでも、他愛無い会話。くだらないジョークが飛ぶ。写真を撮る。
それだけなのに、外でやるだけで全部ちょっと特別だった。こっちは観光客でもないのに、空気だけで急にテンションが上がる。
景色の前で、完全に浮かれていた。
しかも、その日は夕陽がすごかった。
沈んでいく光に照らされた散居村。沈んでいくオレンジが田んぼを照らして、光の道を作っていた。空の色が少しずつ変わっていく時間。気づけばスマホの中は景色の写真だらけ。肉の写真より、たぶん景色の方が多い。

富山にこんな景色があったのか、と思った。
北日本新聞で見たことはある。でも、紙面で見た景色と、実際にそこに立って見る景色はまったく違う。新聞の写真なら数秒で流れていくのに、実際に見た景色は頭に残った。気に入った1枚は、今ではスマホのロック画面になっている。
あの時間の自分は、たぶんかなりテンションが高かった。
40代の大人というより、心の中の小学生がログインしていた感じ。
「人生に、まだこんな遊び残ってたのか」みたいな顔をしていたと思う。
自然の中の「畏敬」は、自分の悩みを少し小さくする
ここで、ばからシリーズらしく少しだけ心理学の話をしたい。
自然の大きな景色を見た時、人は「畏敬(awe)」に近い感情を抱くことがあると言われる。
ざっくり言うと、自分よりずっと大きなものに触れた時の、圧倒される感じだ。

この感覚があると、自分の悩みや不安が一瞬だけ遠のくことがある。
悩みが消えるわけじゃない。人生が急に解決するわけでもない。けれど、自分の頭の中だけで膨らんでいたものが、少しだけ小さく見える。そんなことがある。
今回のキャンプは、まさにそれだった。
普段は仕事や生活のことをあれこれ考える。細かい不安もある。疲れもある。
でも、閑乗寺高原であの景色を見ていた時間だけは、
「うわ、綺麗だな」
が先に来た。
自分の悩みをいったん脇に置いてしまうくらい、景色のスケールが大きかった。
人は、机の前だけでは回復しきれないことがある。
外の広さに助けられる時もある。たぶん今回は、それだった。
夜中2時、寒さと夜景とインドラの網
とはいえ、キャンプはエモいことばかりでもない。
テントの中で寝たのも初めてだった。正直、思ったより寝にくかった。
そして酒を飲んだからか、夜中2時くらいに目が覚めた。喉が渇いたので、水を買いに散居村展望広場の自販機まで少し歩いた。

当然ながら、車もない。風の音だけ。暗い。寒い。少し怖い。
でも、そこで見た夜景がまた綺麗だった。
水を飲みながら夜景を見て、それでも眠れそうになくて、テント前の椅子に戻ってぼーっとしていた。
その時に、なぜかスマホで『インドラの網』なんて読んでいた。

もちろん、意味はよく分からない。
眠れないから、暇つぶしの読書だったのか。それとも僕の中の陰キャが景色の綺麗さに耐えれなくて宮沢賢治に逃げ込んだのか。思い返して「宮沢賢治ならせめて銀河鉄道の夜だろ?」と今更ツッコミたいが、その時はなぜかこれだった。
寒い。静か。ちょっと怖い。でも目の前の夜景には見惚れている。そして、分からない本を読んでいる。
何をしているのか自分でもよく分からない、でも妙に忘れがたい時間だった。
こういう「意味は分からないけど、なぜか残る時間」が、あとから思い返すと案外おもしろい。
完璧なレジャーじゃなくていい。少し不便で、少しばからしくて、それでもちゃんと記憶に残る。たぶん、それもキャンプの魅力なんだと思う。
朝のホットサンドと、終わったあとのラーメン
朝はホットサンドメーカーでパンを焼いた。
案の定、ちょっと焦がした。でも、なんとか形にはなった。そして普通にうまかった。

初めてのことって、うまくいかない場面も含めて思い出になる。
完璧にできたことより、「焦げたけど食べた」「なんだかんだうまかった」の方が、あとで話しやすい。
学習の分野には「望ましい困難」という考え方がある。簡単すぎるより、少しだけ手こずる方が、あとから残りやすいとか。朝のホットサンドは、まさにそんな感じだった。
帰りは銭湯に寄って、昼にラーメンを食べた。
友達と「綺麗だったなぁ」なんて言いながらラーメンをすする。派手な締めではない。でも、あの感じがよかった。疲れているのに、嫌な疲れじゃない。身体は少し重いのに、気持ちはどこか軽い。そんな帰り道だった。

40代で初めてキャンプして、持ち帰ったもの
今回のキャンプで持ち帰ったものは、キャンプスキルではない。
テント設営の熟練度でもない。アウトドア上級者の称号でもない。
持ち帰ったのは、スマホに残ったたくさんの景色と、まだ知らない遊びが人生に残っていたという感覚だった。
またすぐ行くかと言われたら、正直まだ分からない。
でも、行ってもいいと思っている。そこが大きい。以前の自分なら、キャンプなんて「別世界の遊び」で終わっていたはずだから。

何度も思い出す体験は、それだけで少し価値がある。
「ああ、あれよかったな」と思える記憶は、自分の中の資産になる。自信というと大げさかもしれないけれど、少なくとも「行ってよかった」と思える記録にはなる。
40代で初めてキャンプした。
テントも張れなかった。ホットサンドは少し焦げた。夜中には寒さの中でインドラの網に翻弄された。
それでも、子どもみたいにはしゃいだ。
それで十分だったと思う。
もし今、何か新しいことをやるのが少し面倒だったり、「自分には縁がない」と思っている遊びがあるなら、一度くらい友達に連れ出されてみるのも悪くない。
人生にはまだ、自分の知らないまま終わっていない遊びが残っているのかもしれない。
今日のまとめ一行
40代で初めてのキャンプは、テントも張れない大人が子供みたいにはしゃぎながら、外で遊ぶ楽しさを少し思い出した一日でした。
今日できる一歩
自分では選ばない予定を、ひとつだけ誰かに任せてみる。友達に誘われた場所へ行ってみるだけでも、知らなかった遊びに出会えるかもしれません。
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